米子ガイナクス株式会社

SPECIAL

米子ガイナックス株式会社


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始めて米子に行った話。


5月末、眠田直は米子を訪れた。

 
 5月末、私は米子に来ていた。
 いやホント、人の運命なんてどうなるかわからないもんで、2007年1月に、師匠の故・芦田豊雄氏に呼び出された時は「日本アニメーター・演出協会」という団体の事務局長を2年ばかしやることになったし、2011年には頭に創作の神様が降りてきて「こんなのを作れ」とのご命令で、ちょいと過激なPCゲームを作ることになったし、2014年はひょんなことから、私の趣味でもある性風俗の本「オタクのための風俗ガイド」をサイゾーから出したりしてたし、これ以外にも眠田の名前を出さない隠れ仕事もやってたし…。
 
 そんな中、2017年8月にフェイスブックで赤井さんからのメッセージが届いたのです。
 「ところでみんちゃんは最近どうなんですか。自社ゲームで目一杯な感じ?」
 「いえいえー。あのゲームはもうほとんど趣味の自主制作と化してるんで、新しい仕事あったら欲しいです!」
 「じゃあいっぺん飯でも食いますか」とお誘いがありまして、赤井さんが上京される日に合わせて会ってきたわけです。
 

赤井さんとの出会い

 
 ここで読者の皆さんに説明しておきますと、私と赤井さんと最初に会ったのはおそらく 1984年頃。赤井さんが「八岐之大蛇の逆襲」を作ってる最中でして、私がちょうど同人誌の「がんばれ !!ミンキーモモ !!」とかを、ゼネラルプロダクツの販売委託に預けに行った時に知り合ったのでした。(大蛇の撮影はけっこうゼネプロ店内を使っていた。)
 
 その後 1989年、赤井さんが東京・ガイナックスに拠点を移し、PCゲーム「電脳学園」や「プリンセスメーカー」を作っていた頃、私も趣味でMSXのゲームなどを作っていたことを、当時ガイナックス社長だった岡田斗司夫さんや赤井さんに嗅ぎ付けられ、ガイナでゲームを作りなさいということになりまして、ありがたいことに今でもファンのいる「バトルスキンパニック」や「電脳学園Ⅳ エイプハンターJ」はこうして誕生したというわけです。
 
 ま、年寄りの昔話はこの辺にして、赤井さんと会食した後に、さっそくアイディアストックの中から「これなんか米子ガイナックスさん向けじゃないかな?」と思った企画書をPDFで送りました。
 そしたらさすがは米子ガイナックス、いい意味で赤井さんのワンマン会社ですから、「上司に見せるんで~」「社長の決裁が~」とか、そういう無駄な時間を費やすこともなく、一発で企画通りました。ありがたいことです。
 というわけで、現在、ゲームを1本作ってます。どんなゲームかは、正式発表するまでちょっと待っててね。
 
 そんなこんなで米子ガイナックスさんとの付き合いが深まっていくうちに、春先に私がちょっと貧乏状態になりまして、ゲームの監督料の他に安定した月収が欲しいよ~、とわがままを言ったところ「では、宣伝・広報の仕事をしてください」と赤井さんからお達しが出て、このようにホームページ用の駄文を書いているという次第です。
 
 で、広報の仕事をするからには「一度、米子ガイナックスがどんなところか見ておいてほしい」という赤井さんの希望で、2泊3日で米子に行ってまいりました。
 同行者は「米子ガイナックス・首都圏スタッフ」の水守さん。彼女は以前に米子に住んでいたこともあるので、米子鬼太郎空港から米子市内への直通バスとかよく知っていて、宿泊先のワシントンホテルや、米子ガイナの事務所のあるヨナゴフィルムへも迷わず行けました。ここでスタッフの中村さんや森井さんにご挨拶。
 
ヨナゴフィルム外観

ヨナゴフィルム外観


 ヨナゴフィルムはもともと呉服屋さんだった建物で、畳敷きの部分があったり、2階が倉庫になってたり、なかなか趣きのある事務所でした。
 
 空き時間に、すぐ近所の「ギャラリー」という古本屋さんに行ってみましたが、ここは今日びのブックオフなんかとは違う老舗店でした。東京で言えば神保町級。稀少な漫画本もいくつか発見しました。ただ。この手の古本屋にありがちな「店の中に在庫積んでるので、下の方の本が発見しづらい」という欠点があるので、もうちょっと片付けてほしいなぁ。その方が売れるのに。
 
 夕方には米子ガイナックスの役員の方々と顔合わせ。取締役の中ノ森さん、事務局長の後藤さん、漫画担当の寺西さんに名刺交換とご挨拶。
 その後は歓談会(飲み会)に流れたのですが、飲み会終了後に赤井さんが悪戯っぽく「明日は山登りしてもらいますから」の一言。
 ええーーっ。オレ、腰も膝も悪いのに。
「まぁおばあさんでも登れるところだから大丈夫だよ」
 …不安だなぁ。
 
 
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